cloudy
自分の好きなこと、特にハロプロ関連の話題とテレビ番組の感想について多く書いています。
村野藤吾(1891年~1984年)の名言
「時流に乗るな、多数派に巻き込まれたら
脱皮して必ず少数派になれ。」



これは村野藤吾の名言です。

村野藤吾といえば日本を代表する建築家として知られています。

彼が設計した主要な建築作品は以下の通りです。

そごう大阪店
広島世界平和記念聖堂
志摩観光ホテル
高島屋東京店
横浜市庁舎
佳水園
梅田換気塔
新高輪プリンスホテル

これらの村野藤吾の建築作品を見たことのある人なら分かるはずですが、
同じスタイルで建てられた作品は一つとしてないのです。

一見すれば彼の作品であるとはわかりません。

しかしながらその作品には、
「99%関係者の話を聞き、残りの1%から出発する。
それでも村野は残る」という言葉が残されているように、
斬新さと新鮮さに村野藤吾らしさが存在しています。

ではなぜ同じスタイルを繰り返さないのかと言えば、
多数派に巻き込まれず少数派であり続けるためだと言えるのです。

建築当時にいくら斬新で新鮮であったデザインでも、
それが多数派になればそれは新鮮なデザインではなくなります。

じゃあ次に向かうべきは少数派であり、
それまでの自分や現在の自分を脱皮していくことが斬新さ新鮮さを保つ原動力なのです。

それまでの自分を捨てること、現在の自分を捨てることは簡単ではありません。

しかしそれが出来てこそ、
新しい世界が広がり、新しい考えが生まれてくるのだとこの名言は教えてくれています。





スポンサーサイト
ベーブ・ルース(1895年~1948年)の名言
「俺は思いっきり振る。
渾身の力を込めてな。
でっかく当たるか、でっかく外すかのどっちかだ。
俺はできる限りでっかく生きたいんだ。」



これはベーブ・ルースの名言です。

ベーブ・ルースといえば、「野球の神様」と称される野球界のレジェンドです。

日本では投手と野手をどちらもこなす「二刀流」の選手といえば今や大谷翔平選手ですが、
ベーブ・ルースは大谷選手と同じく投手と野手のどちらもこなす、
まさに元祖「二刀流」の選手でした。

そんな野球をするために生まれてきたともいうべき彼が野球を始めたのは、
「セント・メアリー少年工業学校」という全寮制の矯正学校兼孤児院に送られたことがキッカケでした。

彼はもともと札付きの悪ともいうべき不良でした。

そんな彼のことを手に負えなくなった両親は彼を「セント・メアリー少年工業学校」に送りました。

そこで彼はブラザー・マシアス・バウトラーという神父と出会い、そして野球を教わるのです。

そして彼の人生は180度変わりました。

野球で頭角を現した彼は現在のマイナーリーグのチームと契約し、
その後、レッドソックスに移籍しメジャーリーグデビューを果たします。

そしてそこで彼は大活躍を見せ、
大人気球団であったニューヨーク・ヤンキースへ金銭トレードで移籍します。

それまでの活躍以上の成績を残すことは難しいのではないかという周囲の声もありましたが、
移籍後すぐのシーズンで打率.376、54本塁打というとんでもない成績を残します。

これは本塁打ランキング2位の打者を約3倍の差で突き放す圧倒的な本塁打数でした。

この圧倒的なスケールの記録を達成できたのは、
名言にある通り彼ができる限りでっかく生きようとしたからでしょう。

これは野球に限った話ではありません。

でっかく生きる、自分のできる最大限を見せるという事が、
様々な場面で活躍するために必要になってくるわけです。





マイケル・ジャクソン(1958年~2009年)の名言
「生きることは音楽的であること。
体内の血が踊り出すところから始まる。
すべての生命がリズムを刻んでいる。
君は、君の音楽を感じているかい?」



これはマイケル・ジャクソンの名言です。

マイケル・ジャクソンといえば、「キング・オブ・ポップ」と称されたエンタメ界のスーパースターです。

彼が24歳の時に発売したアルバム『スリラー』は全米チャートで37週にわたり1位を記録し、
アルバムの売り上げ世界記録を更新しました。

この名言にあるように彼は人生を一つの音楽として捉えていました。

「体内の血が踊り出すところから始まる」、つまりは人生が始まり、
「すべての生命がリズムを刻んでいる」、つまりは人生というリズムを刻む、
そして音楽はいつか止まるわけです。

彼の‟人生”という音楽は様々なリズムを刻みました。

彼は早くから絶頂のリズムを刻み続け、世界最高の音楽(人生)をまさしく謳歌していました。

その裏で孤独を感じたりともちろん苦難もあったわけですが、
彼はそういった部分をステージを一切見せることはありませんでした。

そんな最高の音楽がいつしか変調し始めました。

世間からバッシングを受け始めたのです。

もちろん彼を変わらずに応援し続けたファンはいました。

しかし多くの人は彼を冷やか目で見たのです。

それは彼にとってとても辛い事だったでしょう。

悲しみの音楽だったと言えます。

そして2009年、彼の‟人生”という名の音楽は突然の終了を迎えました。

その死後、多くの人が彼の素晴しさを再び認め始めました。

彼はその音楽が終了してもなお多くの人たちの中でリズムを刻み続けているのです。

まさしく「キング・オブ・ポップ」と呼ぶにふさわしい人生だったと言えます。





野口英世(1876年~1928年)の名言
「家が貧しくても、
体が不自由でも、
決して失望してはいけない。
人の一生の幸も災いも、自分から作るもの。
周りの人間も、
周りの状況も、
自分から作り出した影と知るべきである。」



これは野口英世の名言です。

野口英世といえば黄熱病や梅毒等の研究で知られる細菌学者です。

ノーベル生理学・医学賞の候補に三度名前が挙がった人物としても有名です。

現在の千円札に肖像画がデザインされていますので、
日本国民であれば多くの人が知っている人物だと言えるでしょう。

彼は幼い頃に囲炉裏に落ち、左手に大火傷を負います。

これにより左手には障害が残り、
農民として生きていく道は難しくなったため学問の道に進むことを母に勧められます。

そして彼の転機となったのが、
小学生の時に周りの支援もあり左手の手術を受け、
不自由ながらも左手の指が使えるようになったことでした。

このことで彼は医学に興味を持ち、自らもその道を目指すようになったのです。

しかし医師になるまで道のりも決して平坦なものではありませんでした。

金銭的なこと、左手の障害のことで幾度となくその道が閉ざされそうになりました。

しかし彼はその逆境を乗り越え、医師になり、皆が知るような業績を残したのです。

家が貧しくても、 体が不自由でも、 決して失望することなく、
彼はその道をひたすら追い続けました。

その姿に周りが共感し、手助けをしてくれたのです。

この名言はまさに彼の経験に基づいた言葉であるわけです。




西郷隆盛(1828年~1877年)の名言
「己を尽くして人を咎めず。
我が誠の足らざるを常にたずぬるべし。
我を愛する心を以って人を愛せ。
自己を許すが如く人を許せ。
人を責めるが如く自己を責めよ。」



これは西郷隆盛の名言です。

西郷隆盛といえば明治維新の立役者の一人として知られています。

大久保利通、木戸孝允とともに「維新の三傑」と称されています。

彼は常に人の前に立つ指導者でした。

指導者、人の上に立つ者はかくあるべきか、これは難しい問題です。

現代においては、
後輩や部下のミスに対してどのような姿勢をとるか、どのような指導をするかが、
先輩や上司の大きな課題だと言えるでしょう。

その問いに対する一つの答えがこの名言です。

「自分に厳しく他人に優しく」はよく言われることですが、
西郷隆盛はさらに一歩踏み込んで「我を愛する心を以って人を愛せ。」と言っています。

人は皆、己が可愛いものです。

自分を可愛がるあまり、保身に走り、他人を売り、そして信頼を失った人は数知れません。

しかしどうでしょうか、その自分に対する愛情を他人向けるということが出来たら。

きっとその人と深い信頼関係が築けるのではないでしょうか。

そんなこと出来るか!と思われるかもしれません。

しかし西郷隆盛はそれを実践したのです。

彼は晩年、地元鹿児島で私学校での教育に専念するのですが、
そこの生徒が暴動を起こした時にそれに付き合い、
西南戦争の指導者となり、そしてこの戦争に敗れたことの責任を取って自ら命を絶ちました。

他人のために身を捧げ、そして自らに厳しくあった、彼はまさにこの名言の実践者だったのです。

彼がいつまでも愛される所以です。