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自分の好きなこと、特にハロプロ関連の話題とテレビ番組の感想について多く書いています。
動物好きの代表者―ムツゴロウさんこと畑正憲さんが死去
ムツゴロウさんこと畑正憲さんが4月5日に死去されました。


このことに関する記事が『スポーツ報知』に掲載されていたので以下で紹介します。

動物との交流を描くテレビ番組などに出演し、
「ムツゴロウ」の愛称で親しまれた
作家の畑正憲(はた・まさのり)さんが5日午後5時53分、
心筋梗塞のため北海道中標津町の病院で死去した。
87歳。葬儀は親族で行う。喪主は妻・純子(じゅんこ)さん。

北海道に「動物王国」をつくり、
イヌやクマなどさまざまな動物と共に暮らした。
1980年に放送が始まった
フジテレビの「ムツゴロウとゆかいな仲間たち」シリーズは
20年以上続く人気番組に。
世界を旅して動物に親愛の情を示す姿も共感を集めた。

昨年4月17日には87歳の誕生日を迎え、
最近ではYouTube「ムツゴロウの656」で
世界中で動物たちとふれ合ってきた思い出話を発信。
インスタでもオフショット、
世界中で撮影された貴重な写真などアップしていた。
SNSは娘の明日美さんが運営している。
3月26日には、
「第104回 スーザン・ブッチャーインタビュー 犬と心は通じ合うの?」と
白髪のムツゴロウさんが元気に話をする姿も公開されていた。

昨年8月11日には白髪のムツゴロウさんが愛犬をなでる姿を掲載。
同31日の投稿ではオオカミ犬「アナバス」とたわむれるオフショットも掲載。
ファンから
「お元気な姿が見られて、ホント嬉しいです」
「ムツゴロウ王国で働くのが小さい頃の夢でした」
「動物に優しいムツゴロウさん いつまでも お元気で、お願いします」
「アナバス…!大好きでした…!
狼犬といえば今でも私の中ではアナバスです」など、
ファンからの声が寄せられていた。
インスタには若い頃、
スリランカで象使いの修行をした時の写真や、
ヒグマとたわむれる姿、
世界中の珍しい動物たちとのふれあいの様子がアップされていた。

「われら動物みな兄弟」で日本エッセイスト・クラブ賞。
動物文学の発展などの功績で菊池寛賞を受賞。
映画「子猫物語」の監督も務めた。
著書に「ムツゴロウの青春記」など。



ムツゴロウさんといえば動物好きの代表者であります。

動物好きの人を指して「ムツゴロウさん」という愛称が付けられるなんてことは、
日本全国どこでも起きていたことだと言えます。

それぐらい影響力が大きい人であったし、
人気の高い人でありました。

だからこそこの死を悼む人は多いのです。

今はただ安らかに。合掌。






世界的音楽家の死―坂本龍一さんが死去
3月28日、音楽家の坂本龍一さんが死去されました。


このことに関する記事が『スポニチアネックス』に掲載されていたので以下で紹介します。

「世界のサカモト」と評された
音楽家の坂本龍一(さかもと・りゅういち)さんが3月28日、死去した。
71歳。東京都出身。
葬儀は近親者のみで営まれた。

スポニチ本紙の取材では都内の病院で亡くなった。
日本における坂本さんのマネジメント会社「キャブ」も
「坂本龍一が去る2023年3月28日71歳にて永眠いたしましたした」と発表した。
20年6月に直腸がんと診断され、両肺などにも転移しステージ4と公表していた。
「キャブ」は
「がんの治療を受けながらも、
体調の良い日は自宅内のスタジオで創作活動をつづけ、
最期まで音楽と共にある日々でした」とした。

坂本さんについて「天才ではなく秀才。努力家だった」と周囲は評した。
常にメモ帳を持ち歩き、気になったことはすべてメモする。
アルバム制作時は最初にコンセプトを決め、徹底的に分析する。
自分に足りないところは勉強する。
感覚的なものではなく、しっかりと戦略を立てるタイプだった。

78年に高橋幸宏さん(今年1月他界、享年70)、細野晴臣(75)とYMOを結成。
79年にシンセサイザーを使った斬新な音楽が海外で受け、
世界ツアーを2度成功させた。
国内では竹の子族がヒット曲「ライディーン」を踊るなど、社会現象にもなった。
個人でも「世界のサカモト」と呼ばれ、抜群の知名度を誇った坂本さん。
1983年の「戦場のメリークリスマス」の
メインテーマ「Merry Christmas Mr.Lawrence」は
今なお弾き継がれる代表曲の一つ。
87年公開の米映画「ラストエンペラー」では
88年の米アカデミー賞作曲賞を日本人として初受賞した。

製薬会社「三共」(現第一三共ヘルスケア)の
医薬品「リゲインEB錠」のCMに用いられた
ピアノソロ曲「エナジー・フロー」も大ヒット。
同曲が収録された「ウラBTTB」(1999年発表)は、
人声を用いないインストゥルメンタルのシングル作品として
初のオリコンチャート1位を記録した。

人柄は明るく積極的。
中学時代はバスケットボールをしており、
高校時代は読書家で哲学書を読みあさった。
全共闘運動にも参加し、YMOの結成までは、
げた履き、髪もぼさぼさなバンカラスタイルだった。

普段は温厚だが、
こだわっていることに対しては負けん気が強く、
職人気質なところがあった。
自分の考えを貫くタイプで、海外ミュージシャンから
「ユー・アー・ストーン(石のように頑固だ)」と言われたことも。
音楽も担当した出演映画「ラストエンペラー」では、
無理な注文をするベルナルド・ベルトルッチ監督と衝突することもあった。
常に全力で真摯(し)に曲作りに向き合っていた。

坂本 龍一(さかもと・りゅういち)
1952年(昭27)1月17日生まれ、東京都出身。
3歳でピアノを始め、小2でバッハの音楽に傾倒する。
78年11月にYMOとしてデビューし、83年に“散開”。
88年、映画「ラストエンペラー」のサウンドトラックで
アカデミー賞作曲賞だけでなく、ゴールデングローブ賞作曲賞、
翌89年にグラミー賞最優秀オリジナル映画音楽賞も受賞。
07年にYMOを復活させ、
翌08年に28年ぶりの英ロンドン公演を成功させた。



坂本龍一さんは、日本を代表する音楽家であり、
世界にもその名を知られていました。

その証拠に『スポニチアネックス』の別の記事では、
「ロイター通信社は
「映画『ラストエンペラー』の作曲者、坂本龍一さん死去71歳」という見出しで
坂本さんの訃報を世界に打電。
中国、韓国、ロシアのメディアも坂本龍一さんの死去を速報した。」
と報じられています。

音楽界に与えた影響の大きさは計り知ることが出来ないほど大きく、
このたびの坂本さんの死は音楽界にとって大きな損失だと言えるでしょう。






本当に強かった男―ボクシングの村田諒太が引退会見
3月28日、元WBA世界同級スーパー王者の村田諒太選手が、
都内で会見を開き現役引退を正式発表しました。


このことに関する記事が『THE ANSWER』に掲載されていたので以下で紹介します。

ボクシングの2012年ロンドン五輪ミドル級金メダリストで
元WBA世界同級スーパー王者・村田諒太(帝拳)が28日、
都内の会見で現役引退を正式発表した。
昨年4月に敗れたゲンナジー・ゴロフキン(カザフスタン)との
王座統一戦が現役最後の試合に。
五輪金メダルからプロで世界王者になる
日本人唯一の偉業を成し遂げた37歳が、
23年のボクサー人生に別れを告げた。
プロ戦績は19戦16勝(13KO)3敗。

村田が現役最後の会見に臨んだ。
テレビカメラ13台、スポンサー関係者も駆け付けた会場。
五輪金メダルの瞬間や
プロデビューから現在までの軌跡を振り返るハイライト映像が流れた後、
凛々しいスーツ姿で登壇した。
背後には全試合の写真を並べたパネル。
花束に囲まれながら心境を告白した。

「皆さん、今日はお集まりいただきありがとうございます。
引退会見、大袈裟にしてくれるなと言ったけど、
なかなか大袈裟になったなと。
ちょっと何て言ったらいいか言葉を失ってしまう。
本日をもって、プロボクサー村田諒太は引退いたします。
ボクサーとしての生活は終わりになります。

まず所属させてもらった帝拳ジム、本田会長、長野マネージャー、
いつもくだらない話をさせてもらったスタッフの方々に
心より感謝を申し上げたい。
中学生の時にテレビを見て帝拳の文字のカッコよさに憧れて、
ここでやりたいなと思っていたところで
本当にやらせてもらって誇りに思います。
帝拳というものを背負ってできたのが
もう半分夢はかなっていたのかなと。感謝をいたします」

さらにスポンサー、放送局、家族に順番に感謝を語り、
「もう僕のプロ人生は皆様のサポートがないとできなかった」と、
少しだけ声を震わせながら告白。
会見中は最後まで涙を見せることはなかったが、
後輩や恩師たちからのビデオメッセージの後には
感慨深そうな表情を見せるなど、時折感情を堪える場面があった。

引退理由についてはこう説明した。

「もともとゴロフキン戦が最後だと思っていたので、
引退以外の選択肢はなかった。
やはり心が迷うところあったし、もっとこうすれば、
ああすればよかったという反省する部分があったので、
なかなか決断には時間がかかりましたが、
これ以上自分がボクシングに求めること、
ボクシング界にできることがあまり見つからなかった。

もっと欲を出せば今まで以上に稼げただろうなと思うんですけど、
それ以上のものが自分の中で見つけられなかった。
それ以上の求めるものがなくなってしまった。
欲を求めてしまうようになってしまうんじゃないか、
執着みたいものが芽生え出しているという
自分に気づいたのが最大の引退理由だと思います」

村田は14歳だった中学3年からアマチュアでボクシングを始め、
南京都高(現・京都廣学館高)で高校5冠を達成。
東洋大を経て、2011年世界選手権で銀メダルを獲得すると、
12年ロンドン五輪で日本人48年ぶり2人目の金メダルに輝いた。
13年8月にプロデビューし、17年10月に世界王座奪取。
五輪金メダルからプロで世界王座に就くのは日本人初の偉業だった。

世界的に層の厚いミドル級。
体格に恵まれないアジア人には縁のない領域だったが、
初防衛に成功したのも日本人初だった。
2度目の防衛戦となった
18年10月にロブ・ブラント(米国)に敗れて王座陥落。
しかし、19年7月の再戦では魂の豪打でファンを沸かせ、
王座奪還劇は感動を呼んだ。

同年12月に再び初防衛。
以降はコロナ禍で試合ができず、
ゴロフキン戦が2年4か月ぶりのリングだった。
ゴロフキン戦は年間最高試合賞(世界戦)を受賞。
9回2分11秒TKOで敗れたものの、
興行規模が20億円を超える
日本ボクシング史上最大のビッグマッチと言われ、
世界的レジェンドとの死闘はファンを熱狂させた。

今後については
「自分が得たものをどうやって皆様に還元するか。
知識や経験。
これから先の未来を待っている子どもたち、
日本全体、社会にどんなものをつくれるのか。
それが僕に課せられた仕事。
よい社会をつくるためにできること。
鍛えること、体を動かすことは特に生きる。
そういうものを生かしたい」と説明した。



村田選手は本当に強かったです。

それはもちろんボクシング選手としてもですが、
一人の男として精神的に非常に強いなと思わされる人でした。

引退後も色々な活躍が期待されます。






死というもの
人が死ぬってつくづく嫌なことだって思います。

先日、小さい頃からお世話になった親戚のおばさんが亡くなり、
改めてそんなことを実感していました。


昨年、大好きだった祖父が亡くなり、
生まれて初めてと言っていい身近な人の死に触れ、
大きな悲しみが自分を襲いました。

それから時が経ち、もちろん気持ちは立て直したわけですが、
やはりいまだに祖父がいないことが信じられないような
そんな感じがする瞬間があります。

いつまで経ってもこれは変わらないようなそんな気がしています。


しかしながら自分は生きています。

むかし自分は『死ぬ力』という本を読んだことがあります。

以前この本の感想をこのブログに書きました。

恥ずかしげもなく、以下でその感想を紹介いたします。

「死ぬ力」って何なんだろうか?

これがタイトルを見た時の自分の感想でした。

「生きる力」というのはよく分かりますが、
「死ぬ力」というのは、
果たして死ぬことに力が必要なのか?という疑問もあって
しっくり来なかったのです。

しかしながらこの本を読んでみて分かりました。

「死ぬ力」とは「生きる力」のことなのです。

著者である鷲田小彌太さんは言います。

「一年生きたは、一年死んだ。」だと。

つまりよく生きることがよく死ぬことにつながっていくのです。

締め切りを設定しながらそれに向かってよく生きていくこと、
これが理想の死に近づく方法、つまりは「死ぬ力」なのです。



残された者がよく生きることが、
亡くなられた方々を喜ばせることになるのであれば、
我々はよく生きてその先でよく死ななければならないのだと思います。






異次元の活躍―大谷翔平が強化試合で2打席連続ホームラン
3月6日に行われた阪神タイガースとの強化試合にて、
「侍ジャパン」の大谷翔平選手が2打席連続ホームランを放ちました。


このことに関する記事が『Full-Count』に掲載されていたので以下で紹介します。

阪神との強化試合に「3番・指名打者」で初出場、
日ハム時代の応援歌も

野球日本代表「侍ジャパン」の大谷翔平投手(エンゼルス)は6日、
驚異の凱旋アーチショーだ。
「カーネクスト 2023 WORLD BASEBALL CLASSIC 強化試合」として
行われた阪神戦に「3番・指名打者」で先発出場。
3回の第2打席で1号3ラン、
5回の第3打席で2打席連発となる2号3ランを放った。

初回2死は右腕・才木の154キロに空振り三振に倒れた。
豪快アーチは1点先取した3回2死一、二塁だった。
低めフォークに膝をつきながらもバットに乗せ、
バックスクリーン右へ運んだ。
大谷は
「時差ボケで体調100%ではなく、
甘い球を打ち損じるのは気になりますが、
打ったのはスプリットで良いスイングができました」と振り返った。

衝撃は止まらない。
5回2死一、二塁。今度は左腕・富田の142キロを右中間席へ運んだ。
打った瞬間にそれと確信する一発。
第3打席でもアーチをかけた。
京セラドームはどよめきがやまなかった。

大谷が日本でプレーするのは
日本ハム時代の2017年10月9日の楽天戦以来1974日ぶりとなる。
左翼の侍ジャパン応援席からは
日本ハム時代の応援歌が流れた。
侍ジャパンでのプレーは2016年11月13日の
オランダとの強化試合(東京ドーム)以来2304日ぶりで、
本塁打は2016年11月12日以来2305日ぶり。
侍ジャパンでの1試合2本塁打は初めてだ。

大谷は1日夜に帰国し、3日にチームに合流した。
この日の試合前練習ではブルペン入り。
その後のフリー打撃では24スイングで6本の柵越え。
5階席への2発を含むアーチショーを見せた。
9日の1次ラウンド・中国戦に向け、順調すぎる仕上がりだ。



異次元の活躍とはまさにこのことでしょう。

ちょっと桁が違いすぎますね。

世界レベルとはこれなんだと思い知らされた気がします。